第7話・抱擁

 「ひとつだけ頼みたい。これで適当に服を買って来てくれないか」
 病院の建物から出てすぐ、桐山は佳澄に1枚の紙幣を渡して、言った。1万円札。
 桐山は病室を抜け出した姿そのままだった。これでは街中を歩くのに目立って仕方ない。
 幸い、ここから歩いて5分とかからない所に大き目のショッピングセンターがあった。 佳澄は紙幣を受け取り、頷いた。
 「わかった。…ほかに何かいるものとかある?」
 「そうだな。…整髪料も出来れば。なるべく、急いでくれ」

 ◆ ◇ ◆

 それから10数分して、佳澄は買い物袋を片手に走って戻って来た。
 「サイズ、適当だけど」
 「ああ。構わない」

 あまり迷っている暇は無かったので、佳澄は白シャツにジーパンという無難な組み合わせの服を選んだ。
 サイズは男性用のMだ。どちらかといえば痩せ気味で身長もそんなに高い方ではない桐山には充分だろうとの判断だった。
 病院の植え込みの陰に隠れて、桐山は着替えた。佳澄はその間、誰か来ないか見張っていたのだが、―少しだけ、頬を紅くしていた。そんな場合でないことはわかっていたのに。

 「待たせたな」
 「あ、うん。…平気」
 佳澄は着替えを終えて出て来た桐山の姿に、暫し、見とれた。
 桐山が着ると、安物の服も最高級品に見えてしまうから不思議だ。桐山はさっと整髪料で髪を後ろに撫で付けて、オールバックに整えた。
 「家ではこの髪型はあまりした事がないから、多少カモフラージュにはなるだろう」
 桐山は髪を整えながら、淡々と言った。佳澄は桐山を心配そうに見詰めた。
 先ほどの会話は…佳澄にとって少なからず衝撃的なものだった。当の桐山本人は全く気にもとめて居ない様ではあるけれど。

 ◆ ◇ ◆


 病院近くの停留所で待っていると、ほどなくして駅行きのバスがやって来た。
 それに乗って、10分と少しで駅に着く。
 城岩町方面の電車に乗り込んだ。急行では止まらないので、各駅停車を選んで乗ると、びっくりするほど空いていた。
 3人がけの椅子に2人で座った。
 桐山と隣同士になっても佳澄の心は浮き立たなかった。…そんな気持ちにはなれなかった。

 重い空気が流れた。
 タタン、タタン、という電車の音だけが響く。

 先に口を開いたのは、桐山のほうだった。
 「…先ほどの事を気にしているのか?」
 「―え?」
 「月村が悲しむ事じゃない」

 佳澄は桐山を見詰めた。
 桐山の表情はどこまでも静かで、揺るぐことを知らない。
 「今の父は俺の本当の父ではないんだ」
 桐山は玲瓏な声でそう言葉を紡いだ。
 「本当の両親の事は分からない。ただ物心ついた時から俺の『親』は父しかいなかったし、父の言う事だけを聞いて今まで生きて来たんだ。それが当たり前の事だった」

 桐山は遠くを見ている様だった。ここではないずっと遠くのどこか。
 佳澄は息を飲んだ。場違いなくらい、彼のその顔は、美しかった。

 電車はトンネルに入った様だ。
 窓から覗ける風景はただ一面の闇。

 「俺を養育しているのは父だ。だから俺の生死を決める権利は父にある」
 雑音の中でも、桐山の声は不思議とよく通って聞こえた。
 相変わらずの無感情な声。

 「そんなの違うよ!桐山くんの命は、桐山くんの命じゃない。誰かが勝手に決めていいものじゃないよ!」

 思わず佳澄は声を荒げた。その声には、自分の命を、他人のものであるかの様に評する桐山への疑問と怒りが篭められていた。
 そんな佳澄の様子に、桐山はちょっとだけ眉を持ち上げて、驚きの表情を見せた。
 「月村。…何をそんなに怒っている?」
 佳澄ははっとした。
 桐山は、佳澄が憤る理由が理解できないのだ。
 桐山は俯いて、小さな声で言った。
 「俺は自分でもよく分からないうちに月村に気分の悪い思いをさせているようだな…すまない」

 「違うよ、全然、桐山くんは悪くないんだから!」
 佳澄が必死にそう言うと、桐山は僅かに首を傾げた。
 「…そうなのかな?」
 「そうだよ」
 桐山くんは一体どんな家で育ったんだろう。…それを思うだけで桐山を育てたという人物へのやり場のない怒りが込み上げてきた。桐山くんは、ものじゃないのに。
 佳澄は桐山の手を握った。自分でもびっくりするほど積極的になっていた。
 そうしなければ、桐山が本当にどこかへ行ってしまうような気がして。

 真摯に見詰めても、桐山は表情をほとんど変えない。
 自分の気持ちが全部は伝わらないことに佳澄は歯痒さを覚えた。伝えようとすればするほど、桐山を責める様な口調になってしまう。
 本当に責めたいのは、桐山くんじゃないのに。
 佳澄は黙り込んでしまった。

 「…月村」
 「え?」
 前触れなく呼ばれ、佳澄はびっくりして顔を上げた。
 そこには相変わらず静かなままの桐山の顔があった。
 「少し、疲れた。…休ませてくれないかな」
 「あ、…うん」
 佳澄は桐山の手を離そうとした。
 けれど桐山は、逆にぎゅっとその手を握り返してきた。

 「桐山くん…?」
 返事はなかった。
 桐山は佳澄にもたれて、早くも寝息を立て始めていた。
 …やっぱり、疲れてたんだよね?

 佳澄は肩に預けられた桐山の身体の重みを愛しいと感じた。
 ずっとこのまま、一緒に電車に乗っていたい様な気がした。
 けれどそれは叶わない事だ。
 名残惜しげに、佳澄は桐山の頭にそっと頬を寄せた。

 県境を越えて、電車はゆっくりと、しかし確実に城岩へと近づく。
 その事に小さく落胆した。
 やがて電車の窓から見覚えのある景色が覗く。

 「桐山くん…着いたよ」
 佳澄は自分にもたれかかった桐山を、そっと揺すった。
 桐山は瞼をゆっくりと持ち上げ、小さく欠伸をすると、椅子から立ち上がった。
 「ああ」
 桐山の端正な顔には、僅かに疲労の影が落ちていた。


 ◆ ◇ ◆


 人気もまばらな駅を出ると、見慣れた風景が視界に収まる。
 帰って来たのだ。―生きている桐山と一緒に。それで軽い安堵感と脱力感が同時にこみ上げて来た。 …今日は色々な事がありすぎた。気持ちの整理がまだ付かない。
 「少し、遠回りをしていってもいいかな」
 桐山の静かな声が降って来た。佳澄は頷いた。

 桐山について歩いているうち、すっと手が引かれた。
 少し驚いた。
 桐山くんが…自分で…。
 ひやりとした手に、しっかりと佳澄の手は握られていた。それが何だか嬉しかった。桐山は、まだ自分を必要としてくれている。
 手を引かれるまま歩き出した。
 冷たい手を、佳澄はぎゅっと握り返した。

 「…月村」
 「何?桐山くん」
 「聞いてもいいかな」
 「え?」
 頭上から浴びせ掛けられた質問に、佳澄は軽く小首を傾げつつ桐山を見上げた。
 桐山は相変わらずの無表情で、尋ねた。
 「月村が何故俺が帰って来て嬉しかったのか、その理由を教えて欲しいんだ」

 佳澄は少しだけ目を見開いた。
 桐山は眉一つ動かさない。
 「…どうしてなんだ?月村。」
 ただ唇だけを動かし、佳澄の答えを促した。

 さらさらと風が吹いた。
 雑踏のほとんど途絶えた夜の城岩町。
 闇があたりをすっかり包み込む時刻。

 どくん、と佳澄の胸が高鳴った。
 こみ上げてくる衝動。…あの時、桐山が「死んで見るのも悪くないと思う」、平然とそう言い放った時と同じ様に。
 今度も佳澄はその衝動に抗わなかった。

 佳澄は桐山を抱きしめた。
 包み込むように。どこまでも優しく。

 身長差があるから、抱きしめるというよりはしがみつくといった言葉が正しいような感じではあったけれど。
 「…月村?」
 腕の中で、桐山が一瞬だけびくっと身体をこわばらせるのがわかった。
 そんな桐山を安心させる様に、佳澄はそっと桐山の背中を撫でた。
 そうしていると、徐々に桐山は緊張を解いていった。
 それを見計らい、佳澄は静かな声で言った。

 「…私ね、桐山くんの事好き」
 「…好き?」
 「うん」
 驚く桐山に言い聞かせるように、佳澄はゆっくりと言葉を紡いだ。
 ずっと、言いたかった言葉だ。…気持ちの全てを乗せることはできないけれど。それでも。
 「だから私は桐山くんには生きてて欲しいし、元気になって欲しいって思ってるよ。お願い。これだけはわかって。…覚えてて」
 佳澄の言葉は、そこで少し詰まった。
 「もう死んじゃうとか、そんな事、言わないでよ」
 その言葉は、あまりに哀しすぎた。せっかく、生きて帰ってこられたのに。

 ◆ ◇ ◆

 桐山は、佳澄の言葉を一通り聞いて―しかし暫くは黙っていた。
 戸惑っていたのだ。
 佳澄の言葉はさっき言った事と矛盾していた。
 自分の命は自分の命。その言葉に従うならば、佳澄の言葉は何の拘束力も持たないはず。
 自分が死にたいと思えば、勝手に命を捨てる事はできる、そのはず。

 けれど佳澄の言葉を聞いて、佳澄の泣いた顔を見て、一度は決めた事を覆してしまったのは、どうしてなのだろうか。
 「逃げなさい。その女の子の為にも」
 別れ際の、青山の言葉を思い出した。
 佳澄が言っていた、「自分が生きて帰ってきただけで嬉しいと思った存在」は、少なくとも1人はいた。佳澄の言葉は、間違っては居なかった事になる。
 いや、1人ではなかった。―どうして忘れていたのだろう。
 「…わかった」
 桐山は呟いた。
 佳澄の背中にそっと手を回してみた。腕の中に誰かの存在を感じているというのは…初めてだったが、悪くないなと思った。

 自分にとって、佳澄は今、特別な存在なのだろうと思った。
 こうしてまだ生きていようと思えるのは、佳澄が自分を引き止めてくれたからなのだと。
 そんな気がした。事実―そうだ。

 佳澄の背中に回した手に、桐山はぎゅっと力を篭めた。
 こめかみが鈍く疼き続けている。
 「どうしたの…苦しい?」
 佳澄が顔を上げて、心配そうに尋ねてきた。
 「いや」
 心臓が高鳴っていた。それに佳澄は気付いたのだろう。
 …それが不快なものではないと言う事を伝えるには、どうすればいいのだろうか。

 桐山はその疑問を解決する術を持たなかったから、ただ佳澄を抱きしめているだけだった。
 佳澄は桐山の背中を、優しく撫で続けた。真新しい桐山のシャツの胸に頬を寄せて。
 さらさらと夜風が2人の間を通り過ぎた。何時の間にか、2人の間に言葉は必要なくなっていた。

 ◆ ◇ ◆

 どれくらい、そうしていただろうか。

 おもむろに桐山が呟いた。
 「月村の家の者が心配しているんじゃないか」

 佳澄ははっとした様に桐山を見上げた。鞄の中には、携帯電話があった。さっきから何度もかかってくるから、電源を落としてしまった。
 桐山に気をとられて、佳澄はすっかり家の事を忘れていた。
 「あ…」
 言葉に詰まる。家に帰らないわけにはいけない。でも、桐山のことは気にかかる。
 「あてはある。心配は要らない」
 そんな佳澄の困惑を察したように、桐山は静かな声で言って、佳澄の手をもう一度ぎゅっと握ってから、離した。
 「色々と世話になったな。…ありがとう、月村」

 佳澄はそれでまた胸が締め付けられる様な気持ちになった。
 何だか桐山が―別れを告げているような感じがして。
 「桐山くん!」
 「…どうした?」
 佳澄は鞄の中からメモ帳を取り出すと―急いで破って、桐山に渡した。
 「…これは」
 「私の携帯。何か困った事あったら、すぐ電話して。ね?」
 まっすぐ桐山を見詰めて、佳澄は言った。
 佳澄は桐山との繋がりを断ち切りたくなかった。
 「ああ」
 桐山はメモ用紙をそっとジーンズのポケットに仕舞いこんだあと、言った。
 「…夜は危ないから、月村の家の傍まで送るよ」
 「え?…いいの?」
 「ああ。構わない」

 ◆ ◇ ◆

 電灯だけが灯る静かな夜の住宅街を、桐山と佳澄は並んで歩いた。

 このまま…家に着かなければいいのに。
 佳澄はそんな事を思った。
 僅かな明かりに照らされた桐山の横顔が悲しいほど綺麗に見えた。いつものように、明るい話をしたかったが、こう言う時に限って、言葉は出てきてはくれなかった。

 ◆ ◇ ◆

 佳澄の家の前まで来ると、桐山は踵を返して去って行った。
 「またな」という言葉を残して。

 佳澄はその桐山の後姿が見えなくなるまで―随分と長いこと、その場に立ち尽くしていた。
 また、会えるよね?…そう、信じてていいよね?
 そう問いかけたかったが、―もう、遅かった。彼の姿は夜の闇に消えてしまった。

 佳澄はやがて諦めて、自分の家の方に向き直った。

 ◆ ◇ ◆

 「ただいま」
 相当怒られるものと覚悟して佳澄がチャイムを押すと、意外なほどの歓迎を受けた。
 母親も、電話を受けて早めに仕事を切り上げて帰って来たという父親も、少しも怒ってなどいなかった。
 「これ以上帰ってこなかったら…探しに行こうかってお父さんと話してたのよ」
 母親は心底安心した様な顔をして微笑んだ後、佳澄を抱きしめた。
 「もう、あんまり心配かけないでね」
 佳澄はそれで―急に申し訳ない気持ちになった。
 「ごめんなさい…」
 「とにかく無事で良かったな。さあ、家に入ろう」
 父親が佳澄の肩をぽんぽんと叩いて促した。

 そのとき、なぜか、桐山の事が頭に浮かんだ。
 「今の父は俺の本当の父親ではないんだ」
 「本当の両親の事は分からない。ただ物心ついた時から俺の『親』は父しかいなかったし、父の言う事だけを聞いて今まで生きて来たんだ。それが当たり前の事だった」

 そう言った桐山の顔はどこか寂しげに見えた。
 「月村の家の者が心配しているんじゃないか」
 桐山くんは一体、どんな気持ちで―私にそんな事、言ったんだろう。

 佳澄の目元から、すっと涙が零れた。

 「―佳澄、どうしたんだい」
 いち早く気付いた父親が、驚いた様に佳澄を見詰めて、言った。
 「…ごめん、なさい…」
 ぽろぽろと涙が零れた。
 止まらなかった。
 「もう、いいのよ?ちゃんと反省すれば」
 母親も心配そうにそう言って、佳澄の頭を撫でた。
 ―桐山くんは、こんな風に心配してもらえる事もないんだ。
 家族の優しさが、今は逆に辛く思えた。

 やがて、布団に入る時刻になっても、佳澄はずっと桐山の事を考えていた。
 私、ちっとも知らなかった。
 桐山くんがそんなに辛い目にあってるなんて。
 ちっとも知らなかったよ―。

 いつも、桐山は変わらない無表情だったし、少しも辛そうなそぶりを見せたりだとか―愚痴を言ったりしたこともなかった。
 佳澄は、何も知らないで、「お母さんがうるさくて」「あんなに言うことないのにね」桐山に愚痴をこぼしていた。そのことを今更ながら、後悔した。
 もし、自分がそんな状況に陥っていたら―悲しくて、どうにかなってしまいそうなのに。

 佳澄は携帯の画面を見詰めた。
 着信はない。相変わらずディスプレイには時刻が表示されるのみ。
 時間はもう夜の11時を回っていた。
 桐山は―ちゃんと休めているだろうか。
 そう考えて―佳澄ははっとした。

 「行くあてはある。心配は要らない」
 ―行くあてなんて、桐山にあるんだろうか。
 家には勿論帰れなくて。
 いつも一緒に居た桐山ファミリーの皆も、今はもう居ない。
 佳澄の中には―桐山が彼ら以外に親しい人を作っていたという記憶は無かった。

 あれは、もしかすると。
 佳澄を安心させるための嘘だったのかも知れない。
 桐山くん、ねえ、本当にちゃんと、行くあてなんてあるの―?
 また胸が締め付けられるような気持ちを、佳澄は味わった。

 ◆ ◇ ◆

 そのころ、桐山はふらふらと夜の城岩町を歩いていた。
 繁華街は避けて、なるべく人通りの少ない道を選んで進んでいた。
 特に目的地もないのだが。

 幾つか見覚えのある建物のそばを通過した。それは、病院で眠っている間に夢に見た景色だった。

 古ぼけたアパート。…笹川の家。
 狭い庭に、1本だけ大きいシュロの木がある1軒家。―黒長の家。
 そして一番馴染み深い、1階建ての家。
 通りに面したその家の表札には、消えかかった字で「沼井」と記されていた。
 ―充の、家。

 それらの家は皆一様に静まり返って、人の気配もほとんどしなかった。家を賑やかにしていた子ども達が消えてしまった所為だろう。

 殺したのは桐山自身だった。
 充たちが死んだ今、それらの建物に自分が足を踏み入れるということはもう二度とない。
 ちりっとこめかみが疼いた。
 どうして疼いたのか、わからなかった。
 「喪失感」と言う言葉が頭に浮かんだ。

 よくファミリーの皆で溜まることがあった、月岡の父親が経営するゲイバーの傍も通った。
 何となく、足を運んで見ようと思っただけなのだが。
 これからが稼ぎ時というのに、その店の入り口は閉ざされていた。
 「都合により暫く休業します」と書かれた紙が貼られていた。

 まだ桐山は足を止めなかった。

 家々の明かりが次々と消えていっても、桐山は足を止める場所を見つけることが出来なかった。
 ―俺の「行くあて」はどこにあるんだろうな。
 桐山は目を閉じた。―俺には、よくわからないよ。
 少なくとも以前まではあった様に思えた。
 今は、消えてしまったけれど。

 住宅街に差し掛かった。
 マンションの1つに付設した、公園の隅に古ぼけた電話ボックスを見つけた。
 携帯電話が普及した今となっては、もうほとんど利用される事もなく放置されているそれ。

 桐山はそのドアを開けた。
 受話器を持ち上げて、小銭を入れる。
 メモ用紙に記された番号を押した。

 そうしてみようと思った。
 いや、―そうしてみたかったのかも、しれなかった。


 ◆ ◇ ◆


 佳澄は跳ね起きた。
 バイブレーションに設定してあった携帯が照明を落とした部屋の中でしきりに着信を告げている。
 携帯を拾い上げると、通話ボタンを押した。
 公衆電話からだった。
 しかし、一向に声が聞こえてこない。
 「あの…どちら様ですか」
 いつもだったら気味悪くてすぐに切ってしまうところだが、佳澄は妙な予感の様なものを感じて、幾度ももしもし、と受話器に向かって問い掛けた。

 ふうっと、溜息の様な声が受話器から洩れた。
 「…俺だ…」
 「桐山くん!?」
 佳澄はびっくりして聞き返した。
 それは確かに桐山の声であったけれど。
 ひどく苦しそうな…。
 「何でもない。…ただ、月村の声が聴きたくなったんだ」
 「ねえ、桐山くん、今どこに居るの」
 「用はそれだけだ。…起こして済まなかったな」
 がしゃん、と冷たい音。続いてツーツーと耳障りな音。

 「桐山くん…」
 佳澄は電話を握りしめた。

 ◆ ◇ ◆

 「…俺には、よくわからない…」
 電話ボックスの中、桐山は受話器を置いた、その手をそのまま自分のこめかみに当てて、呟いた。
 頭が痛かった。
 無理して動いた所為で少し熱が出てきているのだろうと思った。
 体が重く、ひどくだるい。

 どこかで休みたかった。
 どこか。―きっと今は。
 桐山は電話ボックスを出て、少し気を抜けばすぐに倒れてしまいそうになりながら、ふらふらとベンチに向かって歩いた。
 ベンチに腰を下ろした。父親の追っ手が迫ってきているかも知れないという危険も、今は思考の隅においやって。ただ今は―疲れた。休んでいたかった。

 さっき佳澄に抱きしめられた時の事を思い出した。
 出来る事なら、もう一度…。

 自分で自分の身体を抱きしめて―桐山は目を閉じた。


 つづく


2006/02/07