いつからだったか、俺は父に命じられて様々な知識を吸収するようになった。
長時間拘束されて与えられる膨大な知識。意味すらもわからないまま、俺はそれを受け入れた。それ以外の道を選ぶ理由がなかったから。
「お前は心身ともに桐山財閥を率いるのに相応しい人物でなければならない。そのための訓練だよ」
財閥を継ぐ人間になる為の「特殊教育」。
それは頭脳面のトレーニング・学習はもちろんのこと、肉体的な訓練としても実施された。
小学校5年生くらいの時だったと思う。
俺は父と数名の家庭教師に連れられて、ある訓練場にやって来た。
そこで灰色の硬い服を渡された。
昨日まで習っていた、防弾チョッキだ。
今日からは実際に被弾してその衝撃に耐える訓練を始めると聞かされた。
「今日は慣れはじめだから、あまり多くない。そこに立ちなさい」
「はい」
俺は父に言われたとおり定位置につき、正面を見詰めた。
ばん。耳を裂くような音がして、思わず俺は目をつぶった。
続いて、鋭い衝撃。
「…く…」
それは、想像していたものよりずっと強かった。
防弾チョッキは銃弾を受け止めるのみで、着弾時のダメージは避けられないと習ったが、その通りだった。撃たれた胸の部分が熱を持って、激しく痛んだ。そこを押さえ、膝をついた。
「和雄、どうした。訓練は始まったばかりだぞ」
「…痛いです。それに…苦しい」
喉が詰まる感じがして、咳をした。
止まらなかった。
甘えるな、と父の鋭い声がした。
仕方がないので立ち上がり、元の位置に戻った。
また衝撃を受けた。今度は、みぞおちの辺りに着弾した。
「…痛い」
「私の前で弱音を吐く事は許さない。立て」
もう一度立とうとして、再び座り込む。体が言う事を聞かなかった。
口の中で変な味が広がり、何かがこみ上げてきたのを手の上に吐き出すと、みるみる真っ赤に染まっていった。
それを見た父が舌打ちをして、言った。
「今日は限界か…おい誰か、和雄を病院に連れて行け」
その日は食事を取る事を許されず、数日点滴を受けた後家の迎えが来た。
そうして定期的に様々な訓練を受けては負傷し、病院に通い、指示されたとおり薬を飲み、ある時には手術も受けた。
身体を切り刻まれて暫くは痛みが取れないし、学校に行く事も許されなかった。
俺の身体はそうして段々と、戦闘向きに作り変えられていった。痛みに対しても、当初に比べれば耐性がついてきた。しかし、痛み自体に 鈍感になったため、内臓疾患の初期症状を検査するために相変わらず病院には通い続ける必要があった。
それで、またたびたび学校を休むことになった。
俺は自分がどのように変えられようが構わなかった。
父が望む事なのだから、ただ従っていればそれで済むことだ。
逆らう理由などなかった。
俺に生きる理由を与えたのは父だ。
桐山家を継ぐに相応しい人間であること。
理由を見失っては、俺は何のために生きて良いのか分からない。
だから従うしかなかった。
様々な知識と技能を獲得した。だが得られなかった事があった。
俺の意思。誰かから与えられるのではない、俺自身の意思。
ほんの幼い頃から繰り返し見る、はっきりとした映像の形では記憶できない夢の中で、誰かが俺に言っていた。女性の声だったと思う。
「どうか生きて」
聞き覚えのある声。…しかし誰なのかは思い出せない声で。
「あなただけは生きて。…幸せになって」
…幸せとは何だ?俺には、よくわからない。
わからないんだ。
だから、ただ生きていようと思っていた。
その意味がいつか分かる日が来るまでは。
強いて言うならばそれが俺の唯一つの意思。俺が自分で知りたいと思ったこと。
「会社の繁栄に一個人の幸せなど関係無い。二度とそんな事は聞くな」
教えてくれる誰かを探していた。父は教えてくれなかったから、父以外の、誰かを。
◆ ◇ ◆
いつだったか、屋上で充たちと居る時に、聞いてみた。
「…充。幸せとはどのようなものだと思う?」
「何すか急に、そんな…」
「俺にはよく分からないんだ。だから、知りたい」
充は俺が見詰めると、僅かに緊張したような顔をした。
俺は少し質問を変えて、また聞いた。
「充にとっての幸せとは何だ」
充は一度恥ずかしそうに頭を軽く掻き、そして、今度はまっすぐ俺を見て、言った。
…誇らしげ、と言ったらいいのだろうか、そんな表情をしていた。
「俺、今幸せっすよ。ボスみたいな凄い人と一緒に居られて」
「…そういうものなのかい?」
…幸せというのは、そんなに簡単なものなのかな?
「あら、幸せの定義なんて人それぞれよ」
隣で聞いていた月岡がどこか潤んだ様な目で言った。
「でもあたしは少なくとも五人でこうしていられるのは幸せだって思ってるわ。でなきゃ一緒に居ないもの」
「俺もボスと居られて嬉しいぜ。あ、充、妬くなよな」
「うっせーよ」
笹川が嬉しそうに俺を見て言った。その後充が顔を紅くして笹川をどついた。
「…俺も。俺みたいな奴がボスと一緒に居ていいなんて…今でも、夢みたいだよ」
「ほら博、そんな自分卑下するなよな。ボスも嫌って言ってないだろ?」
俯いた黒長の背中を充がぽんぽんと叩いた。
そんな充達を見ながら、やれやれと言うように一度煙草を吹かしてから、月岡が言った。
「桐山くんもあたしたちと一緒に居るって事はそうなんじゃないの?」
◆ ◇ ◆
「………」
桐山は目を開けた。
寝返りを打とうとすると、柔らかな何かに頭が沈む感じがした。それで少し驚いた。
今まで横たわって居たはずの硬く冷たかったベンチの感触とは程遠い。どこか甘い香りのする、見覚えのない部屋。…ここは?
そっと瞬きをした。…ぼんやりと、意識が戻って来る。
…俺はいったい、何をしていたのかな?
その答えをくれる人物が、すぐ目の前にいた。
「…月村?」
「良かった。…気がついた!」
まだ少しぼやけた視界に、安堵したような佳澄の笑顔がおさまった。それだけで、桐山は心拍数が徐々に落ち着いていくのを感じた。
◆ ◇ ◆
桐山からの電話に不安を覚えた佳澄は、あれからすぐ桐山を探しに家を飛び出した。
心配した父親が引きとめたが、「知り合いが怪我をしているの」真摯な表情の佳澄にさすがに心を打たれたらしく、「それなら、一緒に探すから。とにかく一人で行くのはやめなさい」と言った。
どうした偶然か、桐山が辿り着いた公園は佳澄の家とは目と鼻の先にあった。
佳澄と父親は家を出てまもなく、公園のベンチでぐったりしている桐山を見つけた。二人がかりで桐山を背負い、家まで連れてきた。
◆ ◇ ◆
「大丈夫なのか?」
「平気だよ。桐山くんは何も心配しないで」
病院に見舞いに来ていた時と同じく、佳澄は優しく微笑んで言った。無条件に桐山を肯定する笑みだった。それはまだ充たちが生きていたとき、桐山に対し向けていたものに似ていた。
「どこか痛かったら言ってね。…無理しなくて良いから」
その佳澄の顔を見ていると、何だか胸に温かい何かが広がるのを感じた。しかしそのすぐ後に桐山は、自分が居場所を見つけられなかったことを思い出した。
「…痛い」
ぽつりと呟いた。
「―え?」
佳澄は心配そうに桐山の顔を覗き込んだ。
佳澄は気がつかなかったが、桐山が青山医師以外の前で「痛い」と口にしたのはこれが初めてだった。あの日、父に命じられて以来、桐山はどんなに痛む時でも表にはその素振りを見せぬようにしてきた。
「どこ?」
「…ここが」
桐山はすっと左胸に手を当てた。そして、目を閉じた。
「月村、俺に行く当てはなかったよ。」
自分を拒むように、家々の扉が閉ざされていた事を思い出す。
ちりっとこめかみが疼いた。
「あまり意識した事はなかったんだが…俺は随分と色々なものを持っていたんだな」
桐山はそっと自分の胸を撫でた。
「だが今はない。…みんな、俺が自分で無くしたんだ」
ずっとわからなかった。自分の幸せ。
それでも失ってみて初めて、桐山は自分がかつて「幸せ」であった事に気付いた。それと自覚できなかったとしても、確かに自分は何かを持っていて、それを失うことによって「無くした」感覚はあった。
―どっちでも良いと思って居たはずの事が、本当はどっちも良くなかったのだと言う事。
それでも、一度失ったものは二度と戻ってこない。充も、月岡も、笹川も、黒長も。…もう、どこにも居ない。
「桐山くん…」
暫くそんな桐山の顔をじっと見詰めていた佳澄は、耐え切れなくなったように桐山の手をぎゅっと握って、言った。
「これからは、いつでもここに来ていいから。私、桐山くんと一緒にいたい」
佳澄は桐山が言いたい事を察したのか、少し辛そうな声で言った。
「私じゃ、桐山くんの行く当てになれないかな…」
佳澄の瞳が潤んでいた。
桐山はじっとそんな佳澄を見詰めた。
…どこにも行き場所がないと理解した時、一番最初に浮かんだのは、この佳澄の顔だった。
桐山は、佳澄の手を握り返した。
「月村。」
「―え?」
「月村が俺が生きていて嬉しい、と言ってくれた時、何だか、悪くない感じがした」
少し目を大きくした佳澄の顔を、どこか穏やかな目で見詰めながら、桐山は静かな声で言った。
「父が俺の死を望んでいると聞いた時よりもずっと。…よく分からないんだが」
桐山は言葉を紡いだ。静かだが、どこか決意の篭められたような声で。
「俺は死なない。死ぬつもりはない」
はっきりと、そう言った。
それは初めて出来た「桐山自身の意思」だった。
「まだ生きていたいと思った。…父の言葉に背く事になっても」
桐山はそっと腕を伸ばして佳澄を抱きしめた。
以前佳澄がそうしてくれた様に。
「…桐山くん」
佳澄も、桐山を抱きしめた。温かい感触だった。
「良かった…良かった…本当に…」
佳澄の肩は、ほんの少しだけ震えていた。
新しい「行く当て」は、佳澄が作ってくれた。
失った「行く当て」の代わりは、決してできることはない。けれどまた自分は「幸せ」になる事が出来るかも知れない。新しい居場所が、与えられるなら。
もう二度と失いたくはなかった。
腕の中の佳澄を、桐山は再び大切そうに抱きしめた。こめかみが鈍く疼いた。
◆ ◇ ◆
佳澄は桐山を自分のベッドに寝かせ、自分は脇にあったソファに横たわった。
佳澄の母親は、佳澄と桐山の仲を邪推したらしい。
父親はやや不服そうだったが、娘の連れて来た美しい少年にすっかり心を奪われた母親に押し切られる形で渋々納得した。自分の親の寛大さに佳澄は感謝した。
「…月村」
「ん?」
「まだ、起きているか」
「…うん。何かどきどきして眠れなくて」
佳澄は頬を紅くしてタオルケットを引き上げた。そんな場合ではないと分かってはいても、胸が高鳴るのを抑え切れなかった。
しかし桐山はそんな佳澄の気持ちには気付いて居ない様だった。
「明日の朝、俺はここを出るよ」
照明を落とした部屋の中、静かだが良く通る桐山の声が佳澄の耳に凛と響いた。
「―え?」
思わず跳ね起き、照明をつけたあと、聞き返した。
「―どうして?」
―せっかく戻って来たのに。
動揺を隠せない佳澄に、桐山は穏やかな声で言った。
「やるべき事がある。終わらせたら戻って来る」
桐山はベッドから身を起こして、佳澄をじっと見詰めた。相変わらず美しい彼の顔がそこにあった。その表情は、喜怒哀楽のすべての感情を写さない。病院にいたときの 弱々しさも、かけらも見られなかった。
「だから、待っていてくれないか。…必ず、戻る」
桐山の言葉にはどこか決意が篭められている様であった。
―やるべき事。それはやはり、家―父親に関係している事なのだろうか。
佳澄が不安げな顔で桐山を見詰めると、桐山はまた目を細めた。
「…大丈夫だ。今日は、もう休もう」
桐山はそう言って再びベッドに横になった。
すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、佳澄はそれ以上聞く事が出来なかった。
つづく
2006/02/08
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