佳澄は桐山の帰りを心待ちにしていた。
何度も玄関の外に出ては、ため息をついて戻った。
颯爽とここを発った桐山からは、病院にいた時の、今にも消えてしまいそうな、危うげな雰囲気はすっかり消えていた。
「やるべき事がある。終わらせたら、戻って来る」
佳澄に決意を話した彼は、元通りの頼もしさを取り戻したようにも見えたのだが。
不安で仕方がなかった。
血が繋がっていないとはいえ、形の上での父親に、桐山は命を狙われているのだ。しかも、ここ一帯では知らぬものなど居ないほどの、大企業の経営者に。
この気持ちは、プログラムに桐山のクラスが参加させられたと聞いたときに味わった気持ちと似ていた。
もしかしたら―もう?
そう考えて、必死に否定した。そんなこと、あるわけない。
桐山くんは、ちゃんと帰ってきてくれる。約束したもん。
だからどうか、お願い。無事でいて。無事に、帰ってきてね。
本当なら、ついて行きたいくらいだったのだけれど、桐山ははっきりと口にしないにしろ、それを拒んでいる風だった。
だから、こうして待っている。
彼が、何の変わりもない姿で戻ってきてくれるのを。
待つことは苦手だった。そんな性格だったからこそ、佳澄は自分から進んで桐山の病院へ行き、そして彼を見舞い続けた。けれど、彼の回復を目の前で見守り続けることが出来たからこそ、佳澄は「待つ」ことが出来るようになった。桐山が「大丈夫」と言った言葉を―信じたかった。
彼が姿を現したのは、彼がこの家を発ってから、二時間あまりも経ってからのことだった。
「月村。ただいま」
特に急いだ風もなく、桐山は近づいてきた。
「桐山くん!」
桐山の姿を目にすると、佳澄は我を忘れて、彼に駆け寄った。
それは、何よりも待ち望んだ帰還だった。
「よかった…ちゃんと帰って来て、よかった」
「約束したからな」
佳澄が泣きそうな声で言うと、桐山は穏やかな声で返した。心なしか、彼の顔にも、安堵した様子が見えるようだった。何か、長年背負い続けていた、肩の荷が下りたような、そんなすがすがしさが、彼の表情から伝わってきた。
いつも変わらない無表情―その中に見えるわずかな変化を感じ取れるくらい、佳澄は桐山の傍にいたのだ。
「…終わったの?」
「ああ。全部」
桐山はそっと目を閉じて、言った。
何が終わったのかは、桐山のどこか寂しげな顔が表しているような気がした。
佳澄は無言で、そんな桐山を抱きしめた。桐山もまた黙って、佳澄の背中に手を回した。もう、こうすることに躊躇いはなかった。
「…月村」
佳澄の頭をそっと撫でてから、桐山は言葉を切り出した。
「俺は、この街を去ることになるだろう。そういう決まりだ」
「―え?」
衝撃を受ける佳澄に、桐山はあくまで淡々とした声で言った。
「プログラムで生き残ったものは、強制的に他の県の中学校に転校させられる」
「…そんな」
佳澄はまた泣きそうになった。どうしても、別れなくてはいけないのだろうか。
―桐山くんと一緒に居たい。
佳澄はそう願い続けていた。そんな願いすら、叶えられないなんて。
桐山くんは?桐山くんは、何も感じないの―?
桐山は静かな表情を崩さず、佳澄を見詰めているだけだったが、やがて、穏やかな声で言った。
「だが。…高校はこちらの高校を受験するつもりだ」
佳澄は目を丸くした。
「―え?」
「…それ以外に、考え付かないんだ。…俺の行くべき場所が。どうしてなのかな」
「…桐山くん」
それは、桐山の奪われた思い出と、奪った思い出、捨てた思い出のあるこの土地に戻ってくることを示していた。
けれど、それらを考えないくらいに、彼が佳澄を必要としていることも示していて。
佳澄は口を押さえた。ぽろぽろと涙が零れた。
そっと目を閉じた後、桐山は佳澄を抱き寄せた。
「俺は、月村の居るところに帰って来たいんだ」
佳澄はもう胸がいっぱいになって、何と言えばいいか、わからなくなった。桐山の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「月村」
暫くして身を離したあと、桐山はそのとき、佳澄が今まで見てきた中で一番綺麗な顔をして、言った。
何の迷いもない声で。
「…またな」
「…気をつけてね、…桐山くん。待ってるから」
送り出す佳澄にも、笑顔が戻っていた。
◆ ◇ ◆
「将来を約束された」プログラム優勝者である桐山に向けて政府が用意したアパートは、以前の生活水準を考えるならばひどく粗末なものだったが、特に不都合は感じなかった。必要最低限のものが揃っていれば、それでよかった。
総帥からもらった色紙は、役人が届けてきたその日にくずかごに突っ込んでしまった。わずかばかりの荷物を解きながら、桐山は今後のことに思考を巡らせた。
義父は自分を取り戻すことを諦めたようだった。
今のところ、監視されている気配もない。養子縁組はいつ解除されてもおかしくなかったが、それはどっちでもいいことだった。あちらに連れ戻す意思がなければ意味がない。
越してくる前に、いろいろと手を尽くして調べてみたことがあった。初めて興味を持った自分の本当の出自についてだ。昔から、一度興味を持ったことに対しては、明らかにしなければ気がすまなかった。
自分の誕生日まで遡り、桐山は当時の新聞に当たった。地方紙の隅っこに、その記事はあった。桐山財閥の圧力でもかかったに違いない。とてもひっそりと。
「住所不定の男女死傷」
記事には、事故の起こった場所のこと、女性が死亡したこと、男性が軽傷を負ったことなどが簡潔に示されており、原因は男性の前方不注意とあった。男女の名前は伏せられていた。
「軽傷」とされた男性―父親のその後の消息を確かめる術は無かった。義父の口振りから察するに、もはや生きては居ないのだろうけれど。
文字通り自分は天涯孤独の身であった。
頼る必要性もないと判断した。「父」が形式的に存在している今は、強制的に施設に入れられるということもないだろう。中学校は卒業できる。今後の生計を立てる手段はいくらでもある。政府からの保障もわずかばかりなら期待できた。受験における差別は厳しく取り締まられているらしい。奨学金を取ることも考慮した。
そこまで機械的に思考に没頭した後、桐山はぽつりと独り言を言った。
「…あちらには、どんな高校があったかな」
一般の受験生なら真っ青になるところだが、桐山はこれまでほとんど受験を意識して生活してきたことはなかった。三年生の最初に行われた面談では、父の卒業した有名私立校への進学が決められていたが(これに桐山の意思は介在していない)、今は特にそこへ行こうとは思わなかった。
今度、佳澄に聞いてみることにしよう。
桐山は荷物を解く作業を再開した。
数時間後には、何とも殺風景な部屋に布団一枚を敷いて彼は目を閉じた。睡眠は彼にとってもっとも必要なものだった。
◆ ◇ ◆
蝉の声もいよいよ勢いを増す七月の終わり。
終業式帰りに、佳澄は迷った末にある場所を訪ねることを決意した。余計な真似かもしれないし、追い返されても文句は言えない。しかし、「それ」は桐山の話を聞いて少しした後に考え付いたことだった。「俺に行くあてはなかったよ」
小学校からこの土地に居る友達に道を聞いた。僅かに訝しげな顔をされたけれど、足を運ぶのは自分ひとりなのだから、勇気を出した。先生に桐山の入院先を聞いたときの気持ちがあれば、何も怖いことはないと自分を励ました。
築数十年はあろうというアパートが目の前にそびえたっていた。錆の目立つ階段を上って、二階。意を決してドアをノックしようとしたところで、佳澄は人の気配に気づいて振り返った。
黒いランドセルを背負った男の子が立っていた。
「姉ちゃん。…誰」
気の強そうな目元。
どこかに、笹川の面影があるように感じられた。
「あの、私…一年生のとき竜平さんと同じクラスで」
佳澄がどもったように言うと、男の子のつり上がった眉が、ほんの少し下がった。
「…兄貴に?」
かびの匂いが鼻につく、ひっそりとした佇まいの部屋。
まだ新しい位牌と、勝気に笑った笹川の遺影に、佳澄は手を合わせた。言葉を交わしたことも、一年生のときに数回の相手だけれど。
教室で椅子に座り、沼井に何事か叱られてふて腐れていたその顔を思い出す。決して、悪い人ではなかったと思った。胸がずきんと痛んだ。
「兄貴のボスでさ、俺を助けてくれた桐山さん。…あの人なら生き残るんじゃないかって思ってた」
佳澄の後ろから、笹川の弟がぽつりと言った。振り向くと、彼は唇を噛んでいた。目が潤んでいたが、彼は決して涙を流すまいとこらえている様だった。
兄がもう二度と帰ってこないこと知ったとき。そして、「優勝者」が誰であるかを知ったとき。
この子はどんな気持ちだったのだろう。
「恨んでないんだ。…兄貴があんなに尊敬してたんだから…ホントだよ…すげぇ人だったよ…オレのことも助けてくれたから…」
自分の葛藤を知られまいとしてだろう、彼は弁解するように言った。佳澄は彼に申し訳ない気持ちを抱きながら、言った。
「辛いこと、思い出させちゃってごめんね」
「…いいよ。ここ来てくれたのなんて、姉ちゃんと、兄貴の彼女くらいなんだからさ。それでもオレ、泣かないから。おふくろが泣いてばっかいるから…」
ごしごしと目を擦った。「兄貴のぶん、オレががんばんなくちゃいけないんだ…」
竜平の弟は一度ぐすっと鼻をすすってから言った。「ごめん、姉ちゃん。…ここでだけ、泣かせて…あとはがんばるから…がんばるから」
「うん。いいよ…いっぱい泣いていいよ…」
佳澄は自分も泣きそうになりながら、ぐっとこらえて、彼の涙が収まるまで、そこにいた。彼は声を殺して、泣いた。
次に佳澄が目指した先は、おそらく桐山ともっとも親しかった、沼井充の家だった。木造一階建てのその家は昼間でも光のあまり差さない場所に立っていた。
一回チャイムを押した後、少し待っても返答はなかった。諦めて帰ろうとしたとき、キイッ、とドアが開いた。
「うちなんかに、何か御用ですか…」
憔悴しきった表情の女性が出てきた。一瞬だけ、佳澄は後ずさりした。その女性の目が常識を外れて暗いものだったからだ。
「あの…」「あなた、…充の?…充の彼女なのね?そうでしょう?そうなんでしょう?…うちの子にお線香を上げに来てくれたんでしょう?怖がることはないわ、上がって行ってちょうだい…」
痩せこけた身体のその女性は、充に目元がそっくりだったけれど、しかし彼の持っていたような「生気」をまるで持っていなかった。強引に引き入れられる形で、佳澄は家に迎え入れられた。
「充、彼女さんが来てくれたわ、もう寂しくないわよね、ねえ?」
女性が遺影に話しかける。もちろん、写真の中の充からの返答はない。
充は生きていたそのときの姿のまま、額縁に収まっていた。それは笑顔だったが、どこかぎこちない。桐山の隣にいたときの彼の姿を知っていた佳澄は違和感を覚えた。
沼井くん、こんな顔もしたんだ―いつも怖い顔してるか、優しい顔してるか、どっちかだったのに。
「あの子、とっても悪い子でしょう、私、知ってるのよ。母親ですもの。…でもあの子、家では優しかったのよ。でもあの子、私だけに優しくしてくれないの。子どもは母親に優しくするものでしょう?そうでしょう?…あの人が私を殴るのを止めてくれていたのに…このごろは家にいなかった…」
女性の声は苦しそうだった。
「あの子、きっと、家の外で大切な人を見つけたんだわ…あなたがそうなの?…あなたが?」
佳澄は肩を揺すぶられて、恐ろしくて、けれどとても悲しくて涙を流した。「違います…私じゃないんです…でも、沼井くん、すごい大事な人がいたんです。…その人のそばにいるとき、沼井くん、幸せそうでした…そのことを、伝えたくて」
鬼気せまった表情の充の母は、そのとき、はっとしたように佳澄を揺すぶる手を止めた。
「そう…」
興奮の収まったその表情は儚げで、けれどとても優しいものだった。「母親」の顔をしていた。
「あの子、幸せだったのね?…ちゃんと、笑えて…居場所を見つけられていたのね?」
一筋の涙が頬を伝った。
「ありがとう…あの子、私の前では何も言ってくれないから…私、あの子の事、何も知らないままだった…ごめんね。…ごめんね…」
―お母さんが本当に謝りたい人は、ここにいないんだ…
衣類や雑貨が散らばった部屋で、肩を震わせて泣く充の母を、「怖い」と感じたことを佳澄は後悔した。
激しい感情に揺すぶられた後は、どっと虚無感が押し寄せた。佳澄はぼんやりと陽が落ちる西の空を見ながら歩いた。
黒長と月岡の家も訪ねたが、留守だった。特に月岡の家は人が住んでいる気配すらしなかった。
失ってしまったものは返らない。
わかってはいるけれど―何て寂しいんだろう。
四人とはほとんど話したことはなかった。ただ、一年生のとき、クラスが一緒だった。彼らがいるときは、勇気が出なくて桐山と話すことが出来ず、少しやきもちを焼いたことすらある。
その佳澄ですら―こんなにも寂しい。
勝手かもしれないけれど、四人に祈った。
桐山くんはきっと、みんなと居られて、幸せでした。だって、あんなに寂しそうだもの。
澄み切った快晴の空の下、佳澄は歩いた。
三年B組の生徒たちの家族は、これから新盆を迎えることになる。永遠に帰らない子どもたちの残した空虚は、そうすぐに埋められることはないのだろう。
佳澄が訪れた四人の家だけでない、…全部を背負ったら、心がどうにかなってしまうくらい、深い、深い悲しみが。
思い出したらまた涙が出て来そうになったが、堪えた。家に帰ったら、桐山に電話しよう。でも、このことを話すのは、もう少しあとでいいかな、佳澄は、そんなことを考えた。
◆ ◇ ◆
「ここ、どうしてこうなるんだろう。」
夏休みを利用して、桐山が暮らすアパートにやって来た佳澄は頭を抱え込んだ。佳澄は数学と社会が苦手らしい。それで、桐山が勉強を見てやることになった。
少し首を傾げてから、桐山は佳澄の答案を指差した。
「ここの公式に間違いがある。ここまでは、合っているよ」
「はあ、ほんとどうしよう…」
「僅かなミスだ。克服するのはたやすい」
桐山からしたら、「わからない」佳澄の気持ちのほうがよくわからなかった。最初は。 しかし、自分が「わからなかった」ように―佳澄もまた、「わかる」ために時間をかけるのだ。
桐山は苛立ちも急かしもしなかった。佳澄が納得するまで説明すること。それも悪くなかったから。
「ここ…どんなところ?もう慣れた?」
シャープペンシルを置いた佳澄が聞いた。ひと段落したいという意思表示と受け取り、桐山もペンを置いた。冷蔵庫から出してきた「それ」に手を伸ばす。
「特にこちらと変わらない。適応に不都合は生じていないが」
「…ふうん」
会話が途切れた。桐山は口にしているものに夢中になっていた。佳澄もまたそれを頬張りながら頷いた。
勉強の合間の間食は、二人決まって、佳澄が買ってきたバニラアイスだった。
◆ ◇ ◆
塾に通う佳澄。一日一日をただ過ごしていく桐山。一週間に一度は佳澄から電話をした。直接会うのは、稀にしか出来なかった。しかし、二人の交流は途切れることなく続いた。
桐山の転校先は、城岩とは比べ物にならない都会の中学校だった。
二学期が始まる日。桐山は新品の制服を身に纏って登校した。誰ひとり知るもののない学校に。
「事情は聞いている。クラスの皆には黙っておこう。君も、残り僅かだけれど、ここの生活を楽しんで欲しい。悩みがあったらいつでも来なさい」
桐山を迎えた担任教師はそう言って、人懐っこそうな笑みを浮かべ、桐山の肩をぽんと叩いた。
桐山は無表情で頷いた。「おい、どうした。元気がないぞ!シャキっとしなさい」ぱん、と背中を叩かれ、桐山は一瞬にして戦闘態勢を取ったが、相手が予測していたような攻撃はして来なかったので、戸惑いを覚えた。
「ははは。桐山は面白い奴だな」
「……?」
笑われる意味がよくわからず、首を傾げた。教師はもう背中を向けていた。
どことなく、以前居た城岩中の、三年B組を受け持っていた林田先生の面影があるように感じた。
もう学校を休むような用事のない桐山は、それからほとんど欠かさず出席したが、特に親しい友人は作らなかった。
意図的にではなく。どうでもいいと思ったのだ。
二学期最初のテスト。掲示板に張り出されたランキングのトップに桐山は名を連ねた。季節外れの転校生、人目を惹くその美貌、圧倒的な存在感に周囲は注目した。
以前のトップの座から引きずり下ろされる形となった優等生たちは羨望と嫉妬の混じった目で彼を見た。「天才は楽でいいな」
桐山の出自について噂をし合う生徒もいた。「あいつ、大企業の社長の庶子らしいぜ」「プログラムで優勝したってホント?」「関西でモデルやってたらしいよ」「喧嘩して前の中学追い出されたんだって」「政府が開発した人間兵器らしいよ」
純粋にその美貌に惹かれる女子生徒もいた。「勉強も出来て、スポーツも出来て、格好いいなんて、ほんと王子様みたいだよね。でもなんかお近づきになれないオーラ出してるよね」
◆ ◇ ◆
秋が過ぎ、冬が来て。受験がいよいよ近づいてくる。
さすがに桐山と佳澄は、お互いに会うことも控えねばならなくなった。
12月25日。
生まれてから15回目の誕生日を、桐山和雄はひとりで迎えた。
特に祝いはせず、いつもの食事を取り、シャワーを浴びて、布団に入った。
その夜、久々に長い夢を見た。
12月の、とても、とても寒い日のことだった。
ホワイトクリスマス。
子どもたちはプレゼントを心待ちに眠りにつく。
初めてのプレゼントに、父親と母親から生命を貰った。
けれど、その代わりに奪われた。
与えられるはずだった何かを。
教えてもらえるはずだった何かを。
備わっていたはずの何かを。
残されたのはただ、空虚。
誰も助けてくれない。
未来への希望も、何一つ持つことなど出来ない。
用意されたレールの上を、ただ命じられるまま、人形のように歩いていた。
傷ついても、立ち止まることを許されずに。休むことを知らずに。
「どうか、生きて」
わけがわからないまま生きていた。
「幸せになって」
俺にはよくわからないんだ。…だから、考えないようにしていた。
生きる理由は、ひとつだけだったから。…俺は父に望まれているから生きている。それだけだ。
…では、今は?
今は、なぜ生きている?
暗闇の中、前方に長い黒髪の女が立っていた。
どこか見覚えのある顔だった。
…誰だ?
女は、微笑んだ。ほんの少し、こめかみが疼いた。
「でも、今はわかるでしょう?」
いつも、聞いていた声だった。
いつも俺に。
生きていろと。幸せになれと言っていた。
「…やはりよくわからない。…今の俺は幸せなのかな?」
尋ねた。
「それは、お前が決めることだぜ。俺たちが、他の誰かがお前に押し付けるものじゃない」
女の隣に、今度は男が現れた。
若い男だった。ほんの少しやつれた顔をしている。
けれど多分―それはとても、「優しい顔」だった。義父が見せたことのない顔だった。
「わからないなら、これからわかればいいだろ。あせらなくていい」
男は、やはり微笑んだ。
「それでも、私たちは、ずっと見ているわ。…あなたを」
女が言った。
「お前に幸せになって欲しい。俺たちがそう思ってることだけ覚えておけよ」
男が、続けた。
若い男の顔はよくわからなかったけれど。
女の顔は…そうだ。
鏡で見る、俺の顔に、とてもよく似ていた。
二人は微笑んだ。
「幸せになってね」
こめかみがちりっと疼いた。
まさか―。
手を伸ばした。
けれどもう、そこには誰も居なかった。
闇が広がり、伸ばした手の先の光は掻き消えた。
「ボス」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返る。温かい光が見えた。
「幸せに、なってな」
温かい光に包まれ、そこにあったのは見覚えのある笑顔だった。
こめかみがちりちりした。
「充…」
城岩中学校の学生服を身に纏った四人の笑顔。
―月岡。笹川。黒長。
「寂しそうな」顔に見えた。
月村の家を発つときに、彼女が見せた顔。帰ってきたとき、彼女は「寂しかった」と俺に言った、それと同じ顔。
「さよなら、ボス」
◆ ◇ ◆
「………」
こめかみの痛みで目を覚ました。
心臓が、少し苦しい。
…夢。
桐山は身を起した。
こめかみをそっと撫ぜた。
…この気持ちは、いったい何だろう。
あの二人も、充たちも。もう既にこの世にいない者たち。
いったい、どうして俺の夢に現れることができたのだろう。
いや、俺の想像の産物に過ぎないのかもしれない。無意識は、夢に現れるのだ。
…しかし、ここに残る感覚は…
そっと胸に手を当て、暫し考えた。よくわからなかった。
明確な解答を導く術はなかった。…自分の思考だ、他人に答えを求めることは出来ない。こればかりは方程式は存在しないのだ。蓄積された知識の数々で理解出来ない事柄。自分に当てはめることの出来ない、…「答え」。
ただ言えるのは、夢に現れた者たちを、俺は忘れていないということだ。
彼らは確かに存在していて、そして、俺の記憶の中に留まって居た。
…さよならか。
桐山は瞬きした。
急に目が冴えてしまった。なんとも言えない気分だった。…胸が詰まって…苦しい。
…どうしたら、この気持ちは収まるのだろうか。
その時、滅多に鳴らない携帯電話が着信を告げた。
佳澄からだった。
「ごめん。寝てたかな」
「いいや」
…今一番聞きたかったのは、多分この佳澄の声。
以前、電話をかけずにはいられなかった、それと同じ気持ち。
「今日…誕生日だったよね。どうしても言いたくて」
少しの間の後、佳澄が少し潤んだような声で言った。
「…お誕生日、おめでとう」
「ああ。…ありがとう」
…何もなかったのではない。
気がつけなかっただけなのだろうか。―俺は。
俺は愛されていた。
…今もきっと。
こめかみが、鈍い疼きを持って、自分の中に確かに息づく何かの存在を訴えかけてくる。
桐山はそっと視線を持ち上げ、カーテンの隙間から覗く外の風景を見詰めた。
雪が降っているようだ。
「桐山くん」
「なんだ?」
「雪、そっちも降ってるかな?」
「…ああ」
「風邪、引かないようにね。あったかくして寝て…」
「…ああ」
…俺は、愛されている。
「…月村も」
桐山は、妙に詰まったような声が出るのを感じた。風邪をひいた覚えもないのに。
俺も…愛することはできるのだろうか。
桐山は電話をぎゅっと握り締めた。電話の向こうにいる佳澄の顔を見たいと思った。もう一度、以前のように抱きしめて欲しいと思った。…それは、自分でそう感じたことだった。
◆ ◇ ◆
年も明けて、二月。佳澄と桐山は城岩駅で再会した。入試の前日だった。桐山が受験のために高松に泊まっているので、最後の模試の答えあわせを手伝ってもらうつもりで佳澄はやってきた。
「久しぶり、元気だった?」
「ああ」
今は、桐山は違う制服を着ていた。城岩中学校の生徒ではなくなったから。黒い学生服ではなく、紺色のブレザーに群青色と白のストライプのネクタイを締めていた。
心なしか、以前会った時よりも彼は大人びて見えた。背も少し伸びたかもしれない。 元々あった身長差が更に開いていた。
喫茶店に入り、答えあわせが終わったあと、佳澄は僅かに不安げな顔で、桐山を見上げた。やはりいくつかの解答ミスがあった。桐山に教わって大分わからない箇所が減ったとは言え、完璧とはいえなかった。
模試では、第一志望の高校は安全圏に入っていた。けれど、心臓は高鳴っている。 不安でないと言えば嘘になる。
そんな佳澄に気づいてか、桐山は少し目を細めて、穏やかな声で言った。
「覚えていることを、ただ書けばいいんだ。…あせらなくていい」
そうしてそっと佳澄の肩に手を置いた。
桐山は言葉で慰めることがあまり得意ではないらしい。しかし、桐山の言葉と触れた手の温かさとは、佳澄の迷いを断ち切ってくれた。
「…うん。頑張るよ。」
以前佳澄が、桐山の迷いを断ち切ったときのように。
◆ ◇ ◆
桜の舞う季節。
桐山と佳澄は、それぞれの高校の入学式の翌日に、再び会った。入場料はかかるけれど、桜が綺麗に咲いている栗林公園を、その場所に選んだ。
新しい制服を身にまとった桐山が、以前会った時よりも一段と格好よく見えて、佳澄は少しどきりとした。黒い学生服は城岩中学校の制服のデザインと似ているのに。
相変わらずの、襟足が長めの、特徴的なオールバック。桐山は、まだこの髪型を変えては居なかった。
以前は充に学校でセットして貰っていたようで、最初はどこか決まらない感じだったのを直してあげたことが懐かしく思える。桐山はもうひとりできちんと髪を整えていた。
「何を考えていたのかな、少し、ぼんやりしていたようだが」
「…和雄とこうして歩いてるなんて、なんか、夢みたいで」
佳澄は感慨深げな声で言った。
初めて桐山から志望校を聞かされたときは、とても驚いたものだ。そこは、佳澄の合格した高校のすぐ近くの、県内屈指の進学校だった。私立だったが、桐山は特待生として入学したらしい。
「これからのことは、まだ、決めていないから。俺がやりたいことを探してみようと思うんだ」
「…そう。楽しみだね、これから」
「あぁ」
そう言えば、中学校の入学式の日も。こんな風に桐山と二人並んで歩いたことを佳澄は思い出した。桜が舞い散る、その日に。
あれから、いろいろなことがあって。
佳澄の周りも変わって。―桐山もきっとたくさん変わって。
―きっとこれから先も、いろいろなことが、変わるだろう。
佳澄は少し寂しそうに微笑んで、桐山に身を寄せた。
あれから一番大きく変わったことは、桐山を「和雄」と呼ぶようになったことだ。入試が終わった、その帰りからだった。
桐山家を自らの意思で離れた桐山を初めて佳澄は、苗字ではなく、名前で呼んだ。
これから先、ずっと和雄と一緒にいられるとは限らない。
それでも、今こうしていられることは、とても幸せなことだって私は思うよ。だから私は、…和雄といっしょにいたい。
「私はよかったよ。…今、…和雄とこうしていられて」
―あの時、和雄が生きてかえってきてくれて、よかったよ。
佳澄の手を、桐山はその一回り以上大きな手で包み込んだ。
「ああ。…俺も」
***
生きていてよかったと。
ちゃんと感じられる日は、いつになるかはわからない。
けれどきっと、生きていなければ、わからなかったことが―あった。
どうか生きて。幸せになって。
今はただ、生きていようと思うんだ。
今はよくわからなくても。いろいろな、ことが。
生きていれば、…いつかきっと。
「Castle Imitation」完
2006/02/20
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