3.受容


 傷つけたくは無かった。
 ただ、欲しいだけだった。
 手を伸ばしても届かない、それを。


 扉を開けたら、あったかい場所に行こう。
 そこは、寒いでしょう?
 ひとりで居るのはとてもとても寂しいでしょう?
 だから、こっちにおいで。
 こっちに、おいでよ?



 桐山はひとり粉雪の舞う通学路を歩いていた。こめかみから伝わる疼きは止まず、気がつくとそこを擦っていた。手袋もマフラーもコートも身につけていない、黒い学生服の肩に乾いた白い塊が降り積もる。

 ―あの日、俺は中川に、何を求めていたのだろう。

 胸に手を当て、高鳴る心臓を、押さえた。いつでも自分の気持ちについて―こんなにも考えたことはなかった。考えていたら、気がついてしまったかもしれない。自分には底なしの空虚があるだけで―ここには何も存在していないことに。
 だから、考えないようにしていたのだろうか…

 雪は桐山の白い肌の上でふわりと溶けた。

 自分がいったい何者であるのか…
 どうして、こうなのか…

 こめかみに手を当て思案していると、ふと、視線のようなものを感じた。
一瞬だけ反応が遅れたのは―日頃特殊教育を受けている彼としては、許されないことだったかもしれない。
 注意が散漫になっていた。中国・四国地方屈指の勢力を誇る、桐山財閥の御曹司として―また、桐山ファミリーの「ボス」として―あるまじき失態だった。

 「暗殺者」はどこにでもいる。決して油断はするな―

 義父の言葉に、忠実に従ってきた。充たちと繁華街を歩いているときも、常に桐山は臨戦態勢を崩さなかったし、だからこそ、素早く応戦することができたのだ。

 既に自分の目の前までやってきた「そいつ」の一撃から、とっさに後ろに飛んでその衝撃を減らすことだけが、唯一出来た抵抗だった。

 「…っく…」

 桐山は短く息を洩らし、痛むそこを押さえた。うっすらと降り積もる雪に真紅の痕が、ぽつぽつと刻まれた。




 典子が保健室を後にしたとき、既に五時間目の授業が終わり、HRも終了した後だった。保健室に入るときは鬱々としていた気分が、今はすっきり晴れていた。
 ひどく傷つけられた記憶は、そう簡単に癒されるものではない。これからもずっとずっと、残ってしまうかもしれない。
 けれど自分を傷つけた相手、桐山和雄を、典子は今恨んでは居なかった。

 川田に話したとき、川田が彼を「空虚な人間」と言い放ったとき、典子は彼を庇おうとした。そのときに、気がついたのだ。あのとき自分が彼に抱いた気持ちに。
 胸が高鳴る、七原への激しい恋愛感情ではない。川田への信頼とも違う。

 ただただ、冷たく暗い闇に存在する彼の存在を哀しく思った。手を差し伸べたいと思った。その気持ちは消せないものだった。

 川田が言ったように、自分が桐山の全てをどうにかしよう、と思うのはひどく大変なことなのかもしれない。だからこそ、彼は忠告したのだ―「全てを背負うことはない」と。

 でも、彼が「何か」を抱えていて―苦しんでいることは、確かなのだ。自分は、その「闇」の一部に触れてしまったのだから。

 あたしは、桐山くんのことを知りたい―

 中途半端な今の気持ちのままではいたくなかった。それはきっと、自分にとっても、…桐山にとっても、多分に、辛いことだから。

 「あたし、桐山くんと話してみようと思うの」
 典子の独白を聞いて、川田はちょっと眉を上げたあとに頷いた。強く引きとめはしなかった。典子の意思を察してくれたらしい。彼は自分の意見の押し付けはしない人だった。ただ、穏やかな顔をして、言った。
 「…無理はするなよ」
 「大丈夫。ありがとう。川田くん」
 川田に話せてよかったと思った。胸のつかえが取れたのは、彼のおかげだった。



 
 典子は一度、教室に行った。しかし誰もいなかった。桐山が今日、学校に来ていたのかさえ典子には分からなかった。
 ―今日はあきらめようか…

 典子は少し気持ちを殺がれたような思いで、学校を後にした。彼と会ったとき、どうしようか―たくさん考えた。もしかしたら、彼が怖くて、竦んでしまうかもしれない。…でも、川田に一度言えた後だから、自分の思ったままを伝えたい、典子はそう結論付けた。


 さすがの典子も、そのときは予想もしていなかった。そのすぐあとで、彼に会うことになるなんて。
 

 学校を出て少しした後。
 雪の降り積もる通学路の途中で、典子は「彼」に遭遇した。



 心臓が、止まるかと思った。
 ぶるっと典子は肩を震わせてその場に立ち竦んだ。

 「桐山くん…」

 腹部から血を流した彼が、そこにいた。典子の驚きに気づかぬかのように、彼は歩を進めた。血がぼたぼたと零れた。
 一瞬、これが夢なのか現実なのか、典子にはわからなくなった。
 
 「中川…」

 荒く息をつく桐山は、よろよろと典子のほうまで近づいてきて、―それで、力尽きたという風に―膝を折った。
 
 「…すまなかった…」

 桐山は苦しそうな息の下で、言葉を続けた。

 「あのとき、中川の泣いた顔を見て―、止めなくてはいけないと思った。だが止まらなかった、…中川は七原を想っている。中川の目はいつも、七原に向けられている。…そう思ったら…」

 桐山の艶やかな黒髪が額にすっかり降りていた。荒く息をつきながら桐山は典子の顔を見上げた。
 人形みたいに無表情の顔がそこにあった。

 「…桐山くん」
 「中川に…謝りたかった…すまなかった…」

 ぼろぼろと涙がこぼれてきた。桐山が支えてあげなければ今にも死んでしまいそうな、頼りなげな存在に見えた。県下に知らぬものなどいない不良グループのボス―桐山和雄が。

 「…中川は、俺だけのものでは、なかった。」

 桐山の苦しげな声は、絞り出すようだった。何の感情も篭もっていないのに、かえって悲痛なものに聞こえた。

 「…桐山くん、もう、喋らないでいいよ」

 典子は膝をつき、桐山の肩を支えた。彼は全体重を預けることはせず、なおも自分で立とうとした。
 もう見ていられなくなって、言った。「桐山くん!このままじゃ、死んじゃうから!あたしに頼っていいから!」

 叱り付ける様な口調。
 実際典子が、ここまで声を荒げたことは、今までになかった。
 桐山は貧血のためか、それまでぼんやりとしていたが、典子のその声で、はっと我に返ったらしい。
 今度はほとんどの体重を、典子に預けてきた。典子が支えきれる程度で。それも典子に「そう言われたから」従ったような動作だった。

 

 学校を出て、少し行った所にある公園のベンチまで、典子は桐山を支えて歩いた。騒ぎになるといけないと一言断ってから、桐山は学生服の前ボタンを留めた。それで一応、傷口は見えなくなった。彼の痛みは、当然続いているのだろうけれど。


 「救急車を呼ぶほどの怪我ではない」
 心配する典子を、桐山は無表情で制した。「出血はいずれ止まる。手当ては自分でする」
 医師よりも冷静な診断だった。まるで、このようなことなど日常茶飯事だとでもいうかのように。
 こんなに傷つき、痛そうなのに―自分を少しも頼ろうとしない。こんなにひどい怪我をしているのに。
 典子には彼の気持ちが良く理解できなかった。なぜ彼は、一人で何でもやろうとするのだろう。
 …こんなにひどい怪我をした人を、放っておけるわけ、ないじゃない。
 それを彼は、考えたことがないのだろうか。人が、自分に対してどんな気持ちを抱くのか。

 ポタポタと傷口から血が滴り落ちる。それを桐山は自分のポケットから取り出したハンカチで塞いだ。まるで、「修理」でもしてるみたいな手つきだった。

 またしても典子は、口を出してしまった。「あたしに、やらせて」
桐山はちょっと眉を上げたが、無言で頷いた。典子はハンカチを桐山の腹部にそっと当てた。刺された箇所だけ真っ赤に染まったシャツから、みるみる朱色が移って行く。それでもハンカチを離さなかった。
 
 「痛い?」
 「………」
 気だるそうに頷き桐山は肯定した。だが、白い額に僅かに汗を滲ませ、息を乱している以外に、ほとんど表情を変えようとしなかった。
 川田の言ったことは、やっぱり信じられなかった。彼とて血の流れている人間なのだ。
 傷を負って、痛んで、荒く呼吸をして―、それなのに、何も感じられていないだなんて。

 「桐山くん、…あなた本当に、わからないのね?」
 あたしが当たり前のように、感じていることを?

 典子の問いに、桐山は少し考えるように俯いた後、「あぁ。…そうかも、しれない」と答えた。
 典子は衝撃を受けた。彼が、相変わらず表情を変えずに答えたことが、「事実」をもっとも肯定しているように思えた。

 「…何も感じられないのなら」
 桐山はひどく虚ろな目をしていた。
 「生きていることに、意味はないのかもしれないと思うんだ。…俺には時々、よくわからなくなるよ…何のために生きればいいのか」

 彼の言葉は、典子の同情を引こうとしているものではなかった。そんな範疇を、越えていた。

 「そんな悲しいこと…言わないで…」
 受け入れる典子のほうが、彼の代わりに涙を流してしまった。彼が「何も」感じていなくても―典子は「悲しいと」感じていた。



 桐山の血は、彼が言ったとおり少し時間が経つと止まった。
 彼が何も話してくれないので、典子も暫く黙って考え込んでしまった。…何を彼に伝えようとしていたか、混乱して少しわからなくなってしまった。だから、もう一度頭の中で整理してから、言葉を切り出した。
 
 「…桐山くん」
 「…どうした?」
  少し掠れてはいたけれど、思いのほか、穏やかな返答が返って来た。
 「…ああいうやり方でなくて…今みたいに、ちゃんと、話してくれたら、よかったのに。…気持ちが、 伝わるように。」
 怒りの感情を川田にぶつけたあとは、少し、冷静に話ができたように思う。桐山を責めることなく。

 「…ずっと、わからなかった。」
 「え?」
 「俺の中には、何も無いと思っていた。中川が言うように…本を読んだり文章を書いてみようとした、しかし、俺は何も感じなかった」
 言葉を吐き続ける桐山は、不思議ととても、哀しそうに、苦しそうに見えた。
 典子は胸が痛くなった。
 「俺には、わからない…だが、知りたいんだ」
 桐山はもう一度言った。こめかみをしきりに擦りながら。
 

 「中川は俺に聞いた。俺の話を、聞いてくれようとした、だから俺は話してみたいと思った、どっちでもよかった―自分のことについて、もう少し深く考えようと思った。そしてわかった、やはり俺には何かが足りない。」

 彼の言葉には、どこか決意が込められているようだった。
 
 「今まで誰も教えてくれなかった答えを―中川なら、教えてくれるような気がした、だから俺は、中川をずっと見ていた。中川のようになりたかった。」

 桐山の手にぎゅっと力がこもった。「ずっと見ていた」それは典子が、秋也に対してしていたことと、同じだった。…秋也が気がつかなかったのと同様、典子も桐山の気持ちに気がつかなかったのだ。彼は何でも出来る、すごい人で…その彼が、自分に興味を持つなんて、典子は考えもしなかった。

 「中川が…ただ欲しいと思ったんだ。…だが、あのやり方は、間違っていたことに気がついた。…すまなかった」

 桐山の目は真剣そのものだった。正面から見つめられるには、少し痛いくらいに。
 ―だからあのとき、あたしは桐山くんと、目を合わせられなかった。

 典子は、自分が桐山をそれまで「恐れていた」ことに気づいた。彼の肩書きだけでなく、きっと彼の抱える「闇」―「違和感」が怖かったのだ。だからこそ、他の女子たちは桐山を避けていたのだ。

 …けれど。…あのとき、彼に抱きしめられてしまったから、彼の「悲しい」部分に触れてしまったから。典子は彼を手放しで恨み、恐れることができなくなってしまった。

 彼に抱きしめられたときに―流した涙。同情だとか憐れみだとか―そういった言葉で括りたくは無かった。それよりも心の深い深いところで、典子は彼の存在に対して心を痛めていた。

 …あたしは、あなたのことを、もう少し知りたい。…

 典子も桐山の手を握り返した。


 雪がひらひらと舞う。典子は桐山の手を離さなかったし、桐山も、離そうとはしなかった。今は寒くなかった。桐山もきっと、今は寒い思いをしていない。そう願った。心に何も無くても―自分と同じように、肌で暖かさを感じることはできる、そのはずだから。


 「ねえ、桐山くん」
 「…なんだ?」
 「あたしにさっきした質問の答え、今言うね」
 「?」
 「なんのために生きていいかわからないなら―生きていて」

 桐山は瞬きをした。何故だ、そう彼が言いかけたのを、典子は遮った。
 「あたしはあなたに死んで欲しくなんてない」
 そんなことは願っていなかった。
 分かり合えないまま―終わってしまうのは、あまりに悲しかった。
 「そんなの、いや…死ななければ救われないなんて、そんなの、哀しすぎるよ。そんなこと、考えないで」

 桐山の手を握り締めた。桐山はしばらくじっと典子を、その静かな瞳で見つめていた。
 「だが中川には…大切な存在が、いるのだろう?」
 「桐山くんより秋也くんが大切だとか、そういうのは関係ないよ。あたしは、桐山くんに生きていて欲しいと思うわ。」

 あんなことをしておいて、それでもまだ、自分が秋也のところへ行ってしまうことを不安がっているような桐山が、典子には余計哀しい存在に思えた。

 知らなかった。
 触れてみるまで、こんなにも冷たくて、哀しい世界に生きてきた人がいること。
 こんなにあたしが求められていること。

 桐山が不安そうな顔をしているように見えて、典子は桐山を抱きしめた。
 昔、両親が出かけて弟が寂しがって泣いたとき―よく典子はこうして弟を抱きしめ、慰めた。
 言葉でいくら言っても落ち着かなかった弟が、それですっかり泣き止んでしまったのが不思議だった。

 いまはただ、あなたをだきしめたいの。
 あなたを、あたためたい。

 典子が抱きしめた、腕の中の桐山はじっと大人しくしていた。しばらく虚ろな目で典子を見つめていたが、やがて、その長い睫を伏せた。

 何も感じられない。それならあなたはどうしてあたしを求めたの?
 いいよ。
 あたしがあげられるものだったらあげる。
 あなたに足りなかったもの。

 言葉ではなくて、こうすることで、典子は桐山を癒すことが出来るような気がした。
 …彼の苦しみを、包んで、温めたいと思った。

 桐山はどこか心地良さそうに、目を閉じていた。彼が本当に眠ってしまったことに気がついたのは、その少し後のことだった。

 

 …ここは、とても温かくて。
 俺がずっと求めていた「何か」がそこにはあって。
 それまで落ち着かなかった気持ちが、そこでは満たされて。

 俺はようやく、ここで休むことが、できたんだ。





 桐山の傷も癒えたころ、桐山と典子は初めて結ばれた。


 典子の心の準備が出来るまで桐山は待ってくれたし、もう以前のように焦燥感を示すことはなかった。何度も言って聞かせたからだろう、大丈夫。そばにいる。そばにいるから―。

 「…中川。」
 「どうしたの?桐山くん」

 もう彼を怖いとは感じなかった。
 典子は自分の上にいる桐山の背中を優しく撫ぜた。
 「今、何を感じているか」あれから、彼はずいぶんと自分の気持ちを典子に伝えてくれるようになった。
 
 「こうしていると、暖かい…こんな気持ちになったのは、初めてなんだ」

 彼の言葉に相変わらず感情は篭もらなかったけれど、彼の「気持ち」が伝わる今は、それに違和感を覚えることもなくなった。

 どうか、生きて。
 感動して。よく笑って。たまには涙も流して。
 あたしは全てを出来る人に憧れていた。…でも。

 「何も感じられないわけじゃない。―桐山くんはあたしを必要としてくれた。その気持ちがあるんだから…ただどう伝えるか、その方法を、知らなかっただけ。」

 ―全部はできなくてもいいよ。…でも、どうか生きて。

 「…中川。」
 桐山の骨ばった、けれどとても滑らかな白い手が、そっと典子の手を包み込み―そして彼のこめかみに導かれた。
 典子は、無意識に彼のこめかみを撫ぜた。桐山はどこか心地よさそうに、目を閉じたきり―それ以上何も言わなかった。


 …あったかい場所へ、おいでよ。


 おわり

>>あとがき